KAISEIブログ

 : 「校長式辞」 開星卒業式より
 投稿日時: 2015/03/09

3月1日(日)開星高等学校の卒業式が挙行されました。

「校長式辞」の中で、校長先生から卒業生へ『気概(きがい)』という言葉が贈られました。
その「校長式辞」の全文をご紹介いたします。

今日から弥生3月です。天地自然の営みが、風光る春の訪れを少しずつもたらしてくれています。

そうした今日のよき日、ご来賓の皆様、そして、卒業生の保護者の皆様のご臨席をいただき、「平成26年度 開星高等学校 卒業証書授与式」が挙行できますことは、私ども本校職員にとりまして、誠に喜びとするところでございます。本校を代表いたしまして、深く感謝申し上げます。
さて、3年生の皆さん、卒業おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

この式の最初にも「天籟の鐘」が鳴り、それを聴きながら黙想しましたが、皆さんは、この3年間、あるいは6年間、この「天籟の鐘」と共に学校生活を送ってきました。「天籟」とは、改めて言うまでもないと思いますが、「天地自然の響き」という意味です。「天地自然の響き」とは、季節の移り変わりなど、天地自然の営み、あるいは法則によるものです。

SBIホールディングスという会社を知っているでしょうか。総従業員数5000人をこえるインターネット総合金融グループですが、この会社の社長を務める北尾吉孝氏は、「古代の中国人は、天地自然を観察する中で、そこに法則を発見した。それが干支である」とおしゃっています。そして、「干支は、古代からの知恵の集積であり、決して干支占いというような単純なものではない。その知恵に歴史的事実を照らし合わせてみると、普遍的な妥当性が見出せる」ともおしゃっています。ちなみに、北尾社長は、2000年以降、会社の年賀式で、干支をもとに、その年の予想と決意を語られています。

さて、皆さんが卒業する今年の干支は、「乙(いつ)未(び)」、「きのと・ひつじ」です。干支の仕組みは、3学期の始業式でも話しましたので、ここでは繰り返しませんが、北尾氏によれば、この「乙(いつ)未(び)」、「きのと・ひつじ」という年は、新しい改革や創造を進めようとされるが、いろいろな抵抗があり、気概がないと、その改革は進まない年ということです。

これから新たな進路を歩んでいく卒業生の皆さんにも、気概を持って生きていくことが求められると思います。「気概」とは、困難にもくじけない盛んな意欲や気力です。皆さんに、「これぞ気概のある人だ」と実感してもらうために、一人の先人を紹介します。

その人の名は、伊東マンショ。日本史で学んだと思いますが、決して有名な人物とは言えないかもしれません。しかし、彼の生き様は、後世の私たちに偉大な教えを残してくれています。

伊東マンショは、16世紀の後半、日向の国、今の宮崎県に武士の子として生まれました。幼名は、「虎千代」と名づけられました。時は、戦国時代、織田信長が天下統一に向けて勢いを伸ばしていた頃です。一方、「大航海時代」と呼ばれていて、ヨーロッパ人が7つの海を支配し、アジアへも進出するようになっていました。

九州では、薩摩の島津氏と豊後の大友氏が2大勢力で、日向はその間に挟まれて、伊東家は過酷な生活を送っていました。まだ10歳にならない頃の虎千代は、布教のためにヨーロッパから来ていたイエズス会の宣教師と出逢います。親しく交流を重ねていくうちに、「家族で貧しいながらも新しい生活を始めたい」という虎千代の希望と、「人は神の前で等しく生まれ、貧しい人にも慈愛を」というキリストの教えが響き合い、キリスト教の洗礼を受け、「マンショ」というクリスチャン・ネームが授けられました。

当時、イエズス会は、日本での布教活動を推進するため、日本人宣教師の養成を考え、そのための施設を作りました。マンショは、その中の一つ、長崎県の有馬にあるセミナリヨに入れられ、キリスト教を学びました。イエズス会は。織田信長から日本でキリスト教を布教できる約束は取り付けたものの、資金不足に喘いでいました。カトリックの総本山であるヴァチカンに何度も資金送付の依頼状を出しても反応がありません。ローマ教皇をはじめ、カトリック本部の人たちは、アジアはあまりにも遠く、日本や日本人に対する理解が足りませんでした。

日本にいる宣教師たちは、「ならばヴァチカンの人々にも日本人に接してもらい、日本の高度な文化や文明に対する理解を深めてもらおう」と考えました。キリシタン大名の協力も得て計画されたのが、「天正遣欧使節」です。その4人のメンバーの中心が、伊東マンショです。彼を含め、いずれも13、14歳の少年たちでした。

長崎の港を、帆に風をはらませて進む小さな船で出港したのが、天正10年、1582年の2月です。途中、マカオでは季節風が吹き始めるのを10ヵ月待ったりしながら、東シナ海、南シナ海、インド洋、そして大西洋を通って、天正12年、1584年の8月、ポルトガルの首都、リスボンに到着しました。実に、2年半、約900日もの長い時間をかけて、ヨーロッパにたどり着きました。その間、赤道直下の灼熱の太陽、大嵐、熱病、飢餓など、幾多の試練を乗り越えての快挙です。

マンショたちがリスボンの港にたどり着いた時、遠くアジアからの使節団にたくさんの祝砲が轟きました。彼らの登場は、当時のヨーロッパ人にとって衝撃的でした。なぜなら、初めて日本人を目の前にする機会だったからです。日本人の小柄な体格、髪の毛や目の色、顔のつくりや雰囲気、着物姿など、すべてが興味深いものでありました。彼らの姿を描いた絵画は、400年以上たった今日でも大切に保存されています。

マンショたちは、クリスチャンの洗礼を受けていましたが、同時に誇り高き侍の子弟でした。彼らには、10代という年齢にも関わらず、日本と日本人がルーツとして、しっかり刻みこまれていました。ヨーロッパ人に対して、自分の国、日本のことを誇りと自信を持って説明しています。マンショたちこそ、歴史上、日本最初のヨーロッパ大使です。

ヨーロッパ滞在が3ヵ月を越えようとした頃、重要な行事がありました。当時世界最強国であったスペインとポルトガルの国王を兼ねていたフェリペ2世との謁見です。今も昔も、国王、日本で言えば、天皇陛下が、通常お会いになる外国人は、国賓に限られています。未知の国の少年たちに対して破格の扱いがなされました。

さらに、イタリアを訪問し、当初の目的であったヴァチカンでローマ教皇、グレゴリオ13世との謁見に臨みました。時は、1585年の3月、今からちょうど430年前です。一般のカトリック教徒にとって、教皇はトップ中のトップであり、近寄れる存在ではありません。そうした夢の舞台で、マンショたちは、思慮深い話し方や優雅で慎み深いふるまいをしました。そうした言動に直に接し、教皇をはじめヴァチカンの人たちは大いに感心しました。その結果、カトリック本部は、日本での活動に対し、毎年の寄付や援助を約束しました。そして、約1年10ヵ月に及ぶマンショたちのヨーロッパ滞在は、各地で日本という注目すべき国がアジアにあることを知られるようになりました。

今から400年以上も前、10代の日本の若者たちが、はるかかなたのヨーロッパをめざし、苦難の末、たどり着き、ヨーロッパ各地でヨーロッパ人が感動する振る舞いをしました。日本という島国に生まれながら、そこに留まらず、気概を持って大海原の向こうに目を向け、まだ見ぬ世界を求めて歩んでいった先人の偉業に、私たちは大いに学ばなければいけないと思います。

コロンブスの大陸発見やマゼランの世界一周も偉業ですが、彼らは大人の航海士として、国王の依頼を受け、巨額な資金援助によって成し得たものです。マンショたちの純真さや使命感を考えると、これこそ全人類的な偉業であると言えます。

卒業生の皆さん、これからの人生、気概を大事にして歩んでください。卒業生の皆さんが、困難にくじけない強い意欲や気力を持って、本校の校名「開星」の由来の如く、社会の発展に役立つ有望な人材に成長されることを祈念して、私の式辞を終ります。